2008年12月4日木曜日

脳のからくり。



竹内薫・茂木健一郎著の「脳のからくり」という本を読みました。
もともと脳について興味があったので読んでみたわけです。

茂木健一郎氏はクオリアという概念を
継続的に主張しているのですが、
それについての興味深い示唆がありました。

クオリアとはWikipediaによれば、
クオリアとはいわゆる「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、世界に対するあらゆる意識的な体験そのものである。
「質感」ともいい、定量的には測定できないものだそうです。

で、本の中にこんな一節が。
クオリアは、それを実際に体験しなければ類推が利かないものであるからこそ、
クオリアをすでに感じてしまった人と、まだ感じていない人のあいだには断絶があります。
その断絶を乗り越えようとして、私たちはコミュニケーションを試みるのかもしれません。
なるほど、クオリアのギャップを埋めようと先祖が努力した結果
言語が生まれたのですね。
こんな一節も。
言葉を発する時、私たちの心の中にあるのは、「こんな感じのことを言おう」という一つのクオリアです。
言語操作能力は、クオリアをいかに精緻に言語化できるかの能力ということになりますね。

僕は広告屋でありながら圧倒的にこれが弱いと感じます。

文字を読むこと自体がもの凄く億劫で、雑誌を読んでいていも、
ほとんどビジュアルばかりを見てしまいます。。。

写真を撮るのが好きなのですが、
説明的な写真はあまり好まず、そこにある雰囲気を重視したいという思いも
写真を言語化するのではなくあくまでクオリアの状態でとどめたいという
願望なのかもしれません。

文章にクオリアをとどめようという動きが広告業界にもだいぶ前からあると思います。
つまり「インサイト」、「レレバンス」、「エンゲージメント」などの話。

杓子定規な関係ではなく、商品と生活者との間の曖昧な雰囲気。
そのはっきりしない状態を表現することがもてはやされているような気がします。

とはいえ、デッサンは大切なわけで、
ピカソだってキュビズムに入る前は超写実だったわけで、
クオリアを正確に言語化しようという姿勢がないと、
顛末はおじさんたちの「アレだな。」とかいう
「アレ」を量産してしまうことに行き着くのでしょう。

なんだかややこしい話になってきましたね。

まあ、まずは、
クオリアを言語化するスキルを面倒くさいけど
身につけていく必要がありますね。

でも言語化じゃなくて絵画化するのもありなんでしょうね。
相手と感覚が共有できればそれでいいわけですから。

嗚呼、酔っぱらっているので今日はこれにて。