2009年5月5日火曜日

「多読術」を読んで、コミュニケーションの真髄を見た。




ひたすら読書をしてひたすら感想を書き続ける
「千夜千冊」で有名な松岡正剛氏の著書「多読術」を
吉祥寺の行きつけの蕎麦屋で一人酒を呑みながら読破。

なかなか示唆に富んだ本だったので
一部抜粋。

こちらが無知だからこそ読書はおもしろいわけで、それに尽きます。
無知から未知へ、それが読書の醍醐味です。

読みながらマーキングすることを勧めています。
鉛筆でも赤ボールペンでも、読みながら印をつけていく。
これはそうとうに、おススメです。
(中略)養老孟司さんは2Bの鉛筆でマーキングをするんですが、
2Bの鉛筆が電車の中や旅行先でないときは、その本に集中できなくなると
言っていた(笑)
(中略)これは「本をノートとみなす」ということだからです。

「話せる」ということと「書ける」ということは、
かなり異なる能力に属しています。
(中略)著者は「文章著者」ですから、そこには文体があって、
なんらかの「書くモデル」というものが動いている。
(中略)このモデルを、われわれ読み手は「読むモデル」として
活用するんですね。
(中略)もっと著者と読者は向き合えるはずでしょう。なぜなら、
ここが本質的なことなんですが、著者が「書く」という行為は、
読者が「読む」という行為ときわめて酷似しているからです。

ここからが特に気になった部分。

まず、書くのも読むのも「これはコミュニケーションのひとつなんだ」
とみなすことです。人々がコミュニケーションするために、
書いたり読んだりしているということです。
このとき、著者が送り手で、読者が受け手だと考えてはいけません。
執筆も読書も「双方向的な相互コミュニケーション」だと見るんです。
(中略)著者と読者のあいだには、なんらかの
「コミュニケーション・モデルの交換」がおこっているとみなします。
(中略)そこには交換ないし相互乗り入れがあります。
正確にいうと、ぼくはそれを「エディティング・モデル」の
相互乗り入れだと見ています。

さきほど「書く」と「読む」のあいだは「編集する」ということで
つながっているというようなことを言ったわけですが、
まさにそのことと同じです。
コミュニケーションは編集的につながっているんです。

コミュニケーションとは「メッセージ記号の通信行為」ではなくて、
「意味の交換」のためにおこなわれている編集行為だということです。


まさに、昨今のコミュニケーションの変化を的確に捉えていると思いました。
インターネットの台頭により、企業と世の中の人たちとの間の
情報の非対称性というものが崩壊し、だれでもかなり専門知識を
瞬時に得る事ができるようになりました。
だから、送り手、受け手の上下関係がとっぱらわれてしまったんでしょう。

「ニコニコ動画」も「Wikipedia」も編集的に繋がっているサイトは
ユーザー数を伸ばしている。
グリゲーなんかを普段していると、ユーザーがバグを発見して、
攻略掲示板に書き込んでいると、数日後にそのバグが
解消されている。
RSSは、ユーザーがメディアのフォーマットを超えて
自ら情報を編集することができるよい手段です。

今後は益々、送り手と受け手が積極的に交われる
コミュニケーションが望まれるのでしょうね。

でも、消費者は非常に情報に敏感なので
正直なものづくりをしないメーカーは淘汰されてしまうでしょうが。